
目次
・生い立ち
・女優に
・引退へ
・高樹蓉子との共演
・出演時の写真
生い立ち
生年月日は1951年8月16日
青木伸子の出身地は対馬と九州本島の中間にある壱岐島で5人兄弟の長女として生まれた。
家は芦辺町芦辺浦にある呉服屋で、現在もその家が残っている。(下の写真)

青木伸子は小学生からの映画ファンで、特に吉永小百合に憧れていた。中学校は芦辺町立箱崎中学校に入り、1967年3月に卒業した。1967年4月に長崎県立壱岐高校に入学する。壱岐高校はその頃、普通科(350人)と家政科(50人)があり、彼女は普通科に入学する。
彼女が高校2年生のとき、オール日活女子新人募集に応募した。日活は斜陽期に入っていたが、それでも応募総数は約7000人で、これに合格した11人の中の1人となった。その頃受けたメンバーの中には、「怪談 昇り竜」などで共演し、現在も女優として活躍している原田千枝子がいた。原田千枝子は青木伸子より年齢は1つ上で、このときは高校3年生だった。原田千枝子は高校を卒業してから日活に入る。一方、青木伸子は高校を中退し東京へ出て女優の道を歩むことになる。
日活所属時代に彼女は新宿の成女学園高校にも通っており、この高校を卒業したかは不明。
俳優に
日活に入社して1969年になると、1月に「
夜の牝 花と蝶」にクレジットなしで出演した。
ちなみに彼女の体格や性格は1969年当時、身長が162cm、体重は56kgだった。バストは88、ウエストは62、ヒップは92だった。性格はおとなしく、非常に理知的なお嬢さんだった様だ。
2月になると「夜の最前線 女狩り」に始めてクレジットされて出演した。彼女の役は大阪から恋人(杉山元)と職を探しに一緒に出てきた女の子で、学生のフーテンたちに荷物を取られそうになり、沢木((和田浩治)に助けられる。その後、沢木の勤めているバーベラミに2人とも勤める。そのフーテンのボスがカストロ(岡崎二朗)で、後で沢木と島野(藤竜也)と一緒に夜の街を乗っ取ろうとする。ちなみにカストロの愛人が礼子(高樹蓉子)だった。
その後、「夜の最前線 東京女地図」で出演し、「博徒無情」で新人明記となり、本格的なデビューを飾る。「博徒無情」での青木伸子の役は主役の高見沢村次(渡哲也)に傷を負わされたヤクザ門太(近藤宏)の妹つる役で、高見沢の役の恋人の杉崎加代(松原智恵子)に憎悪を抱く。このとき、監督の斉藤武市からは「これからも大いに伸びる可能性を秘めている女優だ。」と評された。
1969年はこの他に「姉御」、「朱鞘仁義・鉄火みだれ桜」、「刺客列伝」、「嵐の勇者たち」に出演した。テレビでは「あいつの季節」に出演している。
1970年になると「
斬り込み」に出演する。こらは私自身、青木伸子らしい純情な娘役。彼女の役は岩手県から集団就職で東京に出てくるが、厳しい仕事がやになり、逃げ出してしまう。そこで同じ岩手の出身でヤクザに身を落とす次郎(岡崎二朗)と知り合い、2人は恋仲になる。その後、次郎によって彼女は岩手に帰るが次郎は関東連合会に殺されてしまう。
1970年もその後、「盛り場流し唄 新宿の女」、「
怪談昇り竜」、「野良猫ロックシリーズ」、「くたばれ親父」、「土忍記 風の天狗」、「ネオン警察 女は夜の匂い」に出演している。テレビでは「大江戸捜査網(5回目)」に出演している。
1971年になると、映画は「野良猫ロック 暴走集団71」、「関東流れ者」に出演している。テレビは「おひかえあそばせ(12回目)」に出演している。「おひかえあそばせ」は彼女のいい面がかなり出ている作品だと思われる。
引退へ
日活がB級映画を辞めた(1971年8月)後、青木伸子の出演暦は今のところ不明である。1973年5月には同じ日活に所属していた細井悟と結婚し、芸能界から引退した。
芸暦が数年と非常に短かったが、非常に印象的な女優だった。もう少し長くやっていて欲しかったと思う。
高樹蓉子との共演
高樹蓉子との共演は同じ日活に所属していたせいか、多くの日活映画で共演している。その中で「
怪談昇り竜」は2人とも良く出演していた。
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出演時の写真

「夜の最前線 女狩り」より 「斬り込み」より

「大江戸捜査網(5回目)」より 「おひかえあそばせ」より
参考資料:『映画人名事典女優編』、1967年、1969年『壱岐日報』、1969年『長崎新聞』など。
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